物事の何であれ、否定と肯定が存在する。
僕は今までそう思っていたし、大抵の事はそれで納得出来るものだと思っていた。
物事は多角的で、”絶対”は主観的。それぞれにそれぞれの観念としての”神”が居る。
僕は、ミーハーな見解から己の趣味や主義、それに伴う否定や肯定を決定する人間が好きではない。
(どこかの新聞の社説で)「日本人は自動化をすんなりと受け入れる国民である。」と表現されていたが、それは成る程いい表現だと僕は思う。
”生かす権力”(生きる?だったか?)という言葉があり、それは、社会の中で生きる為に、カテゴライズされた通念の事だという。
”生かす権力”がもたらしたのは、社会にとっての円滑性、そしてカテゴライズした見解と、単一化された神。消費を促す広告に、消費することが喜びであるとする造られた欲。
それはつまり、常識と法とモラルと、”こうあることが幸せ”という指針である。
此れは結局、”自動化された上での観念”だとも思う。
僕は”生かす権力”に対して否定的でもないし、”消費文化”に対しても批判はしない。”自動化”に対しても同様だ。(持ってる免許はオートマ限定だし。)
けれど、何も知らない上でミーハーにただ消費を行う同年代の人間の事があまり好きではない。
「同年代に限って。」 というのは、多分、自分にミーハーの(という表現が悪いとするならば、流行を追う能力)が全く無いのだという事がその理由だろう。単純に、クヤシスのだ。きっと。
だからといって、特別うらやましくも無い。(のは、面倒だし、興味が無いからだと思われる。そして、”いまさら”という観点からの諦めの意味もあると思われ)
そう考えた時に、(唐突に思われるかもしれないが)僕は何も否定はしてはならないという事を主義としたいと思った。
ちょっと前まで、(例えば)ミニシアター系の映画に否定的だったが、少し見方を改めて中道を行くことに当面はしたい。(※否定理由としては、何度も見る事を前提とした作りが蔓延る作品が、”ミニシアター映画”という媒体に相応しく無いと思われるから。本当のミニシアター系は、B級ホラー等こそ相応しいと僕は思う)
ただ、ロッキンオン嫌いだけはやめられそうもないのですが。;
結局、ミーハーなやつがロックを理解しようとする様が非常にみっともないからなのでしょうか。
ロッキンオンを読むなら、認められる人間になる覚悟が必要だと思う。その為に読むのであれば、僕は素敵だなあと思う。
否定定数は、幾何学とは違うと僕は思う。
結局、周囲の構造に依存して、”それなりの見方”しか出来ないのだ。
だから僕は、裏も対偶も無視し、中道を行きたい。
極とは、スケールの為には必要だけれど、ここまで網の張られた社会でそれは自己満足以外に求められはしない。
外れたようでも、外れてはいないのである。
どこかの哲学者が言っていた事。
主体の観覚の中。 ”絶対”ものは”死”だけであると。
なぜなら、死だけは誰にも代替できないからだという。
それも結局、”真理があるということ”あってのこと。
考えることを止めること、その事を考えるというのも、いいのかなぁと思った。