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ヒューマン×ネクロロジー

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オバケヤシキ

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オバケヤシキ


 
 
今の児童のことを考えると、外で遊んでいるのかということを少し思うのだが、(僕が児童だっと時と同じように)やっぱり普通に遊んでいるのだろうとすぐ思い直す。どうしてそんなことを思うかというと、今の児童はPCや携帯の普及で「密室」を作り出すことが昔よりも簡単で、それでしかもそいつを「密室」だとは思っていない―生まれたときから電話があった人間が発受二者だけの密室である電話を、「密室」だとは思わないように。

僕が児童だったとき、学校は「密室」だった。(しかし、それに気づいたのは高校を出てからなのだけど。

閉鎖された空間で一定の時間を一定の人間と過ごす。そして「つらいこと」があっても、密室からの脱出の方法は大抵限られていた。心を凍らすか、退学するか、周りの低脳さにあきれるか、そんなんだ。(因みにもし学校で閉鎖間を感じている人がいるならばオススメしたい方法は3つめの方法だ。ポイントは憐みを持って相手を見つめること。数日も繰り返すとホンキで相手が憐れに思えてくる。笑)

しかし、今の児童は脱出方法として、「密室」を「作り出す」ことが可能だと思う。
ケータイやネットの中。”居場所探しの為”の脱出路はどこにでもある。そんで、その先が彼らにとっての<庭>であり<シェルター>であり<別荘>であり、やがてはそこから出るものもいれば留まるものも更に開拓し自身のものとするものもいるのだろう。

ここで思う。「肝試し」や「おばけやしき」という遊びは今でも残っているのだろうか。
僕にとってのそれらは「密室」からの逃避だった。つまりは脱出のための「密室」だった。
おばけやしきに限らず、たとえばアニメや漫画や小説やヴィジュアル系の音楽もそうだったのだけれど、児童だった僕にとってはそれらは「逃避」としてそこにあった。

ケータイやWebと確実に違うのは、それらの逃避は「一方通行」で在るということだ。すなわち誰も訪れない自分だけの<庭>。ファンレターを書いたり、ライブに行ったり、そのような1アクションなしでは”他からの干渉はない”逃避。

えてして、逃避のための「密室」は、酷く閉鎖的で、しかし、脱出が容易だ。

ケータイとWebの密室は、一方通行ではなく互いに干渉がある。そして、それはヴァーチャルな密室なのにヴァーチャルだとは捉えられない現実味がある。そう、結局のところケータイもWebもヴァーチャルな世界なのだ。
ヴァーチャルかそうで無いかの判断はどこでするのか? たぶん、「自身の意志で止められない逃避」はリアルなのだと思う。もちろんヴァーチャルがリアルに干渉してくるときもある。その差異はそこだ。

当然ながら、おばけやしきも肝試しも、リタイアが可能なのだ。
そして、児童は恐怖の克服とともに―というかそんなものよりももっとドライなものとして―「ツクリモノの存在」とそれとの「手の切り方」を学ぶ。
「密室」からの脱出方法は、「密室」がツクリモノであることを知り、だからこそ学ぶことが出来る。

しかし、巧妙に作られた「密室」ではどうか、ヴァーチャルとリアルの境が曖昧な「密室」ではどうか。
そこが脱出可能だと、彼らには知るすべがあるのだろうか。そしてそれを知るのはいつの日かどんなときか。

『オバケヤシキ』を読み終えて(というか「おばけやしき」という単語を久々に見て)、そんなことを思った。
◆週末の諸問題(西崎憲)
◆美しい家(加門七海)
◆ゴルフ場にて(南条竹則)
◆四(倉阪鬼一郎)
◆見下ろす家(三津田信三)
◆お化け屋敷(福沢徹三)
◆DEATH WISH(小中千昭)
◆マヨヒガ(樋口明雄)
◆世界のどこかで(安土萌)
◆屍衣館怪異譚(北原尚彦)
◆テロリスト(山下定)
◆暴君(桜庭一樹)
◆ロコ、思うままに(大槻ケンヂ)
◆昼顔(森真沙子)
◆彼と屋敷と鳥たち(井上雅彦)
◆二階の家族(菊地秀行)
◆邪曲回廊(朝松健)
◆轆轤首の子供(丸川雄一)

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