父方の祖母が死亡した。
僕にとっては全くといって良いほど面識が無い人だ。血も繋がってはいない。
けれど僕の家族や祖母の肉親にとっては(当然)大切な人であり、急遽にして追善供養の日取りが決められた。
全く良い迷惑である。
僕はまずそう思った。
納棺・通夜・告別式の為、仕事の休みを取らねばならず、髪を染めねばならず、試験の為に取った有休もその日にあてがわねばならず、(例えば僕にとってはこのような些細な件ではあるのだが)、人生の水面に大なり小なり波は干渉する。
「死ぬ」「生きる」の事をここで御託を並べるつもりは無いが、結局のところ、日本の<社会>で生きている以上、「死んだ人」には葬儀をする。
けれどその為に、時間の消費・金銭の消費、感情以外も消費する。
そして得るものは、多分に「節目を行った」という体裁と、(種類はいろいろあろうが)<感情>への片付けなのだと思う。
今改めて思う。
彼女は「あわれ」だったのか?
90歳近く迄生きた認知症の老婆が、介護センターで息を引き取った。
死の二週間程前、医者からあと数ヶ月と云われた彼女は、その死をどこで見取るかの家族会議までしてもらっている。(もちろん彼女はその事は知らない)
そして、”一族”たちが金を使い、時間を使い、感情を磨耗させ、彼女を送り出そうとしている。
僕は、(家族にも親しい友人にも)言っている事に、「死ぬときは誰にも迷惑をかけたくない」そう云っている。
なぜなら父もそのように家族に話していたからだ。
けれど父の死のときも、結局は残された者たち(親類)が話し合い(ここでも様々な<消費>)、結果として「消費によってなりたつ」葬式を行った。
僕は思う。
親類たちは「体裁として」葬儀を行っただけなのではないか。よそ様へ顔向けしたいから葬儀を行っただけではないか?
そして、父の希望していた葬式は、そこには、絶対に、なかった。
どれだけの人が父の死を本気で悲しんだのか、そしてそれ以上に、どれだけの人が<消費によってなりたつ葬式>を通じて「面倒」だと「迷惑」だと思ったのか。
そしてそう思った人が一人出来てしまっただけでも、それは父の意を汲んではいないことであり、父の悲しむところではなかったか。
今回、祖母は死んでいった。彼女の意思はわからないが、父の母である。
そして僕は彼女の葬儀を「迷惑」だと思った。
人は死ぬだけで、人に迷惑をかける。
それはきっと葬式があるからだ。
いくら密葬だといっても回りは(社会)がそれを許さない。
ならば僕はいっそ、埋葬も葬式もなくなってしまえばいいと思う。
オートマチック式の死亡診断機と、葉書数枚程度の遺体。
そしてコンビニのゴミ箱辺りに捨てられてしまえばいい。
葬儀の実行不実行に限らず、その死を悼む人・その死に囚われる人、その両方が存在すると思う。
ならば葬儀など、利己的な体裁以外のなんだというのか。