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ヒューマン×ネクロロジー

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初音ミクに叫ばせる

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初音ミクに叫ばせる

「初音ミク」ブームで「DTM」の存在が更に身近なものとなり、歌がニガテ、楽器が不得手な人でも気軽に音楽(歌詞入りの楽曲)を作れるようになった。それは、歌唱や楽器の技術や音楽理論を持たない人でも、音楽という媒体での表現が易くなったことを指している。
 
ある本の中で、このような風潮は「にわか仕込みの素人楽曲の氾濫」であり、その事態は「それは音楽ではなく、音の怪物の氾濫である」と評されていたのを拝読したことがある。また、自称クラバー(クラブDJ+「賢い」の意味のcleverを併せた造語)の知人からすれば、「誰が聞くわけでもない音楽は、ただの自慰行為であり、こと音楽というものは“酔う”ためのものであってそれ以上のものではない」という。
双方の意見共それはそれで貴重だが、僕は坂本龍一さんの意見を支持したい。
 
映画『戦場のメリークリスマス』の楽曲などで知られる坂本さん曰く、<音楽は音を楽しむもの。それ以上でも以下でもない。>という。クラバーの意見と似ているが、対象について言及していない点で異なる。二者が共通しているのは、音楽は「娯楽」であると暗喩している点だ。
では、これらの意見は「芸術」や「文化」としての音楽を、「道楽」として貶めるものだろうか。違うと僕は思う。
「娯楽」が人類にとって素晴らしいものであると僕が思うことは、原作・雁屋哲さん、作画・花咲アキラさんの漫画『美味しんぼ/いじめを許すな!』の話の中での、以下のようなセリフに感銘を受けたことに端を発する。
<―しかし、残虐な攻撃性を持っているのは軍鶏だけじゃない―(中略)―人間も例外じゃない。人間の歴史を見てごらんよ、戦いの歴史だ。そんな残虐性を野放しにしておいたら社会が崩壊するから、人間は、法律や道楽で残虐性を抑える知恵を身につけた。―>
そう、「娯楽」は人間の自制の為に非常に役立っていると僕は思う。その素晴らしい「娯楽」としての音楽があるというのは、夢のある話じゃないか。
ここで、音楽は「自他のどちらかが娯楽として楽しめるものであればよい」と、話を終わらせたいところだが、その為には「音楽とは何か?」「音楽に技術や理論は本当に必要か?」ということも自分なりに調査することが必要だと思うので、冗長を承知でそれら2点へと動議する。
 
さて、海外には「パンクス(Punks)」という言葉がある。僕は「パンクス」と、音楽をしてそれを現す「パンク」に対しても不勉強なのだが、南田勝也さん著『ロックミュージックの社会学』によれば、「パンク」の誕生が直接社会的影響を与えたのは、1970~80年代であるという。ビートルズの解散、チャールズ・マンソンの逮捕・死刑判決で始まったこの年、世界各地ではそれまでの学生運動・反戦運動が沈静化。音楽による表現(特にロック音楽)は、その人類全体を対象とした「夢」「幻想」「愛」「平和」から、一個人的な「家族」「政治」「生活」など、より内的で身近なものへとその対象を移行していったという。
今しがた述べたが、70年代初頭前後はビートルズが解散し、チャールズ・マンソンが逮捕・死刑判決を受けた年である。また、ジミ・ヘンドリックスが薬物過多によって死亡したのもこの年だ。つまり、「善玉」「悪玉」の区別はあろうと多くの「カリスマ」の「死」と突入を共としたのがこの時代である。この事態において、彼らに憧れた人々は、「伝説」も「ヒーロー」も幻であったのだと、酷く落胆したことだろう。
この事態の把握には『ローリング・ストーン』誌でのジョン・レノンその人のインタビュー記事が奇しくも的確だ。『ロックミュージックの社会学』に引用されていたのでそこから拝借しよう。
<私はもう伝説は信じませんし、ビートルズは伝説のひとつですからね。もうビートルズは信じていないのです、(中略)私はジェネレーション全体のことを言っているのです。夢は終わりました。終わったのですから、私たちは―つまり、すくなくとも私という個人としては―いわゆるリアリティの問題へと降りていかなくてはいけないのです>。
ロックは、幻想や夢、理想という「ロマンティック」なものから、現実と向き合うという「リアリティ」へと変貌し始める。それは先代の大人に次代の子供が失望した風情といえばそれまでだが、この事態は、「夢は叶わぬ。―つまりは、全ての人が幸せになることなどできない―」ことが大人から子に歪な継承として伝わったことを示すのではないか、と思う。
そして、ロックはそれこそ文学の大衆化・文壇化の様相さながらに、分裂しながら迷走し進化する。
大衆音楽として「共感性」を主義とするもの。
差別や虐待に反感し、自分の父や母を「殺せ」などと一個人的で抑圧された衝動を擁護する主義のもの。
あくまで芸術として夢や幻想を描くことを主義とするもの。
それら全ての主義に反し、商業音楽という体制や権威に反発するもの。
この内、最後に挙げた反体制音楽、これが「パンク」である。
 
『ロックミュージックの社会学』に『アンチ体制としてのパンク』なる項として、「パンク」が次のように紹介されている。
<ニューヨークやロンドンのパブやクラブでは、レコード会社の援助によって大衆的な人気を得る方向性をとらず(あるいはとれず)、そこに集まる現場の聴衆との連帯感を第一に置く実践が生まれ、徐々に注目を集めていく、―(中略)―このパブ・ロックの実践は、巨大化したロックと対概念的な「飾りけのない音楽」「音楽の本来持っている躍動感」「小回りのきくゲリラ的な活動」などの意義を獲得していく。―(中略)―>
<スリー・コードからなる稚拙な演奏、唾とともに吐きかける粗野で直情的な詞、王室や大資本に対する長髪と悪態、敗れた服に安全ピンやカミソリをぶら下げるファッションなどの様々な実践は、日々のフラストレーションや欺瞞に対する激しい怒りを連想させるに十分だった。―(中略)―>
<また彼らは、社会的に従属的な位置にいることをさらに強調するかのように、社会に渦巻く諸問題を積極的に取り上げ、政治的立場を表明していった。(中略)>
つまり「パンク」とは、本来ロック(という音楽)が持っていた「政治性」、「希望を与えるもの」、「人は音楽という表現で世界を平和に出来る」というソースをより濃く受け継いだ胚(子供)であり、だからこそ、消えてしまった「伝説」や「ヒーロー」の存在に人一倍焦がれ、反体制という頑固者となってしまった、いうなれば「人一番、甘えん坊で、親が大好きなチルドレン」なのであると、そう僕は思う。
そして、先に引用とした通り「パンク」が求めたのは「連帯感」という共同体(共同体制ともいって良いのではないか)の確立であるという。僕はその時代にその音楽を聴いた訳では無いので彼ら(パンクスたち)の真意はどうなのか分からないが、それは真実だったと思うと夢がある。
「夢」を与えてくれる親の突然の消失と共に、子供たちは自身の風景がリアリティの荒野であったことを知る。「夢」も「愛」も「平和」もただの心象風景に過ぎないと悟った子供が、連帯感を求めたこと、それがとても素晴らしいと思う。
カンボジアという国がある。
ウィキペディアによると、国土にはかつての内戦の後でたくさんの不発弾や地雷が未処理のまま埋まっているという。危険標識はあるものの、子供達は母国語のクメール語が読めないため、誤って危険地帯に入ってしまう。ではなぜクメール語が読めないのか? それはポル・ポトにより彼らの親の代が大量に虐殺されたからである。聞いた話によると、50代前後の大人の生き残りはほとんど居ないらしい。しかしなんと、カンボジアは世界一ケンカが少ない国だという。これはどういうことか。若い世代が、連帯感を持って助け合っているからだ。
 
ロック史において「つきもの」なのは、パンク以前/以後という折点であるという。
しかし、それはロック史に限ることではない。クラシックが劇画となり、民族音楽や昭和歌謡が「アレンジ」の一手段として「カワイイ」というラベルの元で流通し、「パンク」も「ロック」も果てはカートコバーンのような個人的な音楽すらファッション化して消費する日本において、かつて「連帯感」を求めた「パンク」という時期が影響していないなどとは浅はかな考えだが思えない。
人類は、「夢」と「幻想」と、そして(時には苦悩や怒りを表現することで)「愛」と「平和」を、音楽という手段で表現しようとした。かのように、人類にとって有意義であったから「芸術」となり、「文化」として残っていったのだと思う。
しかし、その対象は「人類全体」というものでは無かったのだと、「パンク」の誕生した“理由”は示している。いや、そもそも音楽の原始を考えると対象は「人類全体」ではなく、「目に入る仲間」へと向けたものだったことだろう。
つまり、村意識や連帯感を根底とする「局地的な理想郷の創造(アルカディア)」が音楽の本質だったのではないか。だとすれば、そもそも音楽に権威などというものは、似合わないものであることが分かる。(僕が『ロッキンオン』誌嫌いな理由はここにある)
村意識や局地的な連帯感は、「パンク」のムーヴやカンボジアの例から、素晴らしいものだと僕は思う。これが外交ともなれば又別だが、一つの共同体が支えあって平和に存在するというのは夢がある。そして、複数の村意識が存在するということは複数の共同体が存在するということで、「自分の居場所がどこかにあるのだ」という希望ともなる。
「パンク」には技術も理論も必要ない。連帯感を叫ぶことがパンクである。
そして、述べた通り「音楽」の本質が連帯感だとするならば、音楽にも技術も理論も本来は不必要なのではないだろうか。
とはいえ、自分の「叫び」に輪郭を与えようと思ったときに技術や理論が役に立つのもおそらく本当だ。それは多分、家族や愛する人の口福(幸福)の為に、食材を調理し、料理としてもてなす心境と同じだ。
―音楽に技術や理論は必要か?
果たして要は、親切心、誠意の問題なのである。
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