映画『スカイクロラ』を観る。
森博嗣さんの原作を「どうせ『ライ麦畑でつかまえて』みたいなヤツなんだろ」と、読んでもいないのに勝手にイメージし、伊藤ちひろさんの脚本を「ああ、セカチューの人かぁ」と、観てもいない内から倦厭していたのだが、結果的にもう一度観ようと思ったので(DVDで)”してやられた感じ”である。
もう一度観ようと思った原因は、上映が終了したあと、観客が「みんな無言」で退出したためである。
僕はめったに映画館で映画を観ないが、普通ならば思い思いの感想をツレと語り合いながら出ていくものなのではないだろうか。(たとえば小声で。たとえばロビーや廊下で。)
しかし、今回は(たまたまかもしれないが)そのようなことが無く、それが強く印象に残ったのだ。
「みんな無言」だった理由はいくつか考えられる。
1.映画の内容からの理由。
2.観客への配慮からの理由。
3.偶然無言だったとする理由。
1と2は、映画が起因であることは共通しているが、1は「主観ゆえの無言」、2は「客体への無言」という点で異なる。
1の場合、「映画がつまらなかった。」「感想がいいずらい。」などという理由からの無意識的な無言で、2の場合、「この映画のファンがこの中にいるかもしれないから、批判や感想をこの場で言うのはやめよう」などの理由からの意識的な無言である。
つまり何が言いたいかというと、「みんな無言」のこの状況は、”プレッシャーを感じさせる映画”としての結果だったのではないかと思われる。それが「映画の内容」に対するものか「映画のファン(もしくは押井監督ら)」に対するものかは解らないが、そのような感じを皆が受けたのではないだろうか。
そして、そんなことを考えていたら、”僕自身の感想”を見失ってしまったのである。
マヌケな話、もう一度観ようと思ったのはそういうわけだ。
さて、映画『スカイクロラ』には今までのいわゆる<押井演出――ボクシングでいうフェイントみたいなもの? 宮崎監督がハードパンチャーだとすれば、押井監督はフェイクでファイトする感じ。フェイントが巧みなボクサーのボクシングは、”KOボクシング”という競技としてではなく、フェイントの観戦≪すなわちある意味では、”ボクシング”ではない≫も時にメインとなる。>が意図として無いそうなんですが(ウィキペディア/スカイクロラ項より)、無いといわれると探したくなるのが人情。そして、そもそも今までも”ある(監督の意図として)”のかどうか
不明瞭だった<押井演出>。
そんな、映画を見終わった後にツレと語る「ネタ」を作為的に(?((暴論)))内包していることも、押井監督作品(に別に限らずとも当てはまるけれど)の魅力のひとつなんじゃないかなぁと個人的には思う。
結局、終わった後にツレとあーでもない、こーでもないと、在無が不明瞭な演出について楽しく語り合えました。
何はともあれ、見てよかった。とのことで在ります。