「物理学」。
もうこの一語からして『ウゼッ!』と思われる方も居られることだろう。
だがしかし、この学問、非常に面白い。
”月や太陽が、何故地球に落ちてこないのか?”
”電車に乗っていると、何故ふらつくのか?”
”投げたボールは、何故中空で失速するのか?”
このように、日常生活の中で普通は疑問に思わない事柄を、わざわざ解き明かすのが物理学である。
一見何事も無いように見える物事には、実は”なるべくしてなった”という法則がある。
そしてそれは、「法則」に基づいている以上、予測が出来るものなのである。
物理学は大昔、実は「占星術」つまり星占いから生まれたそうだ。
そしてその後、「法則」を見つけ出し、理(ことわり)を以って、事後を予測する、”解析術”となった。
そう、”占い”は、いつしか、決定的なデータと裏づけからなる「物理学」という精製装置を通し、”解析術”すなわち、「科学」となったのである。
物理学はモノの理を見つけ出す学問である。
それは、おおむね計算式や理論、時として実験によって行われる。
そうして導き出された「法則」は、いわば、この現実世界を構築するプログラムのようなものだ。
これはつまり、”現実世界は「法則」によって縛られている”ともいえる。
また、逆説として、”では「法則」の無い世界は、現実世界では無い”ともいえるだろう。
一体何がいいたいか? つまりこういうことだ。
物理学を学び、この世界の「法則」を理解する。
「法則」とはつまり、世界を構造するプログラムである。
プログラムを知った人間は、プログラマーであり、デバッカーたりえる資格を持つ。
そして、「法則」を模造する術や、改ざんする術を、あるいは見つけることだろう。
「法則」を自在に作操する人間はどうなるか?
そう、彼等は”神”になるのである。
そう。物理学を制する者は神をも制す。
どうですか? 少しは興味が湧いてきませんか?
え、逆にウザイ? 確かに。
が、このウザさが物理学の面白いところでもあるのだ。
ここで、「物理学」は元々「占星術」から生まれた、ということを思い出してほしい。
時は中世。有名な「天動説」が支持されていた時代である。
「天動説」とは、地球を中心として天体(太陽や星や月)が周っているとする説である。
では、天体の向こうに何があるのか?
当時の人々は、「神」が居るのだと考えた。
天体とはつまり、神々が人間に干渉する為の媒質だったのである。
ゆえに、天体を科学する学問、「占星術」は重視された。
現に「占星術」を研究する学者達は、国に重宝され、多額の援助を受けていたそうだ。
何故か?
理由は”「神」の存在を信じていた”という点にある。
つまり、「宗教制統治」である。統治に於いても、当時は「法律」という概念ではなく、「宗教」的観念が国を治めていた。
乱暴なハナシ、国王さまは、「神」さまの旗持ちだったのである。
さて、「天動説」は、地球を中心として、ちょうどプラネタリウムのように天体があり、そしてその外は、神々の世界である。
つまり、星星の動きを”気象”や”災時”と関連づけ分析し、そこからデータをとる「占星術」は、「神々の所業」の観測でもある。
観測で得たデータを元に、天体の動きを予測する事。それはつまり、「神々の所業」を予測する「予言」であるに他ならない。
「占星術」は、「予言」の為の材搾である。
それはつまり、絶対宗教支配の国家に於いて、「予言」が、民衆支配の楔であったことを意味する。
そして、そのような国にとって「予言」を生み出す占星術と天文学者は貴重であった。
つまり国王は、権力としての”神威”を「星占い」によって手中しようとしたのである。
さて、このような、国家全体が「神」を信じていた(統治の為に信じざるを得なかった)時代において、どうも、「神々の世界」なんて無いんじゃないの? という事をうっすら思ってしまったヒトが居た。
かの有名なコペルニクスさんもそうである。彼は司祭であったが、思いつきには勝てなかった。たとえ聖書の記述に反していたとしても、地球は回ってるよと言っちゃった。
この、思いついたダジャレを言わなければ気がすまないようなオヤジニズムから生まれたのが、「地動説」である。
国からしたら、実に『ウザイ』事であった。宗教国家の中での度をこした”KY”であった。国家は聖書を握りながら、彼をシカト刑にした。
だが、「地動説」は死ななかった。
かの有名なガリレオさんらを始めとした学者達に引き継がれ、長い長い講釈の後、長い長い長い時を経て、現代に於いて周知となった「地球は回っている」という「法則」は作られていった。
そう。
ある1人の国家規模でのウザッ発(ぱつ)言が、この世の理を導き出したのである。
実に、う・つ・く・し・いはなしだ。
何がう・つ・く・し・いかといえば、国に総スカンされつつも、貫いた点。
そして、リスキーな素材を、租借する人間と、受け継ぐ人間がちゃんといた点。
真のPUNKシュとは、こういう人たちのことをいうのだろう。(え)
「物理学」とは、モノの理を見つけ出す学問である。
そしてその発掘視野は、(天文学を一例として)膨大な宇宙から、果ては、原子以下の超極小世界にまで臨む。
そして彼らは、”一見すると何でも無い”この世の出来事に、理論や実験で「法則」と理を見出した。
それは、太陽が沈み、日が昇る事に疑問を持たず、普通に暮らしをおくる人々にはあるいは野暮な事だったろう。『海に夕日が沈む、綺麗だからそれでよい』だけではなく、そこから、『じゃあ、何で沈むのか? 海の色が変わるのか?』と考える。まこと『ウザイ』シロモノである。
しかしそれは、自分の住む世界に於いて、また自分自身に対し、シロクロをつける、ということでもある。
そしてそのような発想は、「世界」に「自身」に対し、少なからず”納得していないから”起こるのではないか?
だからして、物理学に関わるその時代時代の人々の生きざまは、学者・権力者・民衆に限らず、実に面白い。
この『物理学』というカテゴリでは、物理学者方が解き明かしてきた「法則」を少しずつ紹介していこうと思う。
そして、それを通じて、その「法則」を見つけたときの”人間”は、はたしてどのような気持ちだったのかを、ちょっとだけ考えるきっかけになれば幸いです。
きっと『ウザイ』物理学が、『カッコイイ』、『面白い』ものに見えるかもしれません。ひょっとしたら。
そして、
”神威が為、己が理を探求せん。”
この言葉は行き着く科学の果てに、僕等にはどう感じるのでしょうか? はたして。