S F や ホ ラ ー が す き
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日本には<立ったまま死んだ>とされる歴史上の人物が幾人かいるそうだが、その原因の多くは医学的理由からの<死後硬直>であるとされている。
しかし、原因が<死後硬直>であったとなると、<死後硬直>はそもそも死んでから起こるものであるので<立ったまま死んでいった>という事にはならない。
又、<生前における筋肉の硬直>だとする説もあるが、それだと本人が意図せず<"たまたま"立った>のであって、「けして私は倒れない!」という本人の意思が尊重されない上、ドラマとしてもアツくなかろう。
では、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい。平安時代末期の僧衆〔僧兵〕。物語などでは義経〔牛若丸〕に仕える怪力無双の荒法師として名高い。「雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだ」とされる)のように、立ち姿で美しく永眠るにはどうすればよいのか?
しかも「私はけして倒れない!」というモノノフの意志を尊守したまま、である。
そこに、一つの可能性を提示してくれるのが、古典物理学における力学系の一つ、<モーメント>と<重心>という考え方である。
さて。今、貴方の目の前には、押し開きのドアがある。
このようなドアを開けようとしたとき、ドアノブ辺りを押すとスムーズに開く。
が、ドアと壁のつけね(ドアが回転する軸)辺りを押すと、簡単には開かないだろう。
その理由は、加える力が一定の場合、回転軸から作用点(力を加える位置)までの距離が異なることで、物体の回転に易難が生ずる為である。
このような<加える力×回転軸から作用点までの距離>で導く、回転軸を持った物体に掛かる力の量値を<モーメント>という。
ではドアの例に、この式を当てはめてみよう。
ドアの回転軸からドアノブまでの距離を100センチメートルとし、ドアの回転軸に近い作用点の距離を30センチメートルとする。そして、ドアを開こうとする力(=加える力)は一定値10としよう。これらを<モーメント>を求める式に当てはめると以下のようになる。
・“ドアノブ辺り”を押した場合の、ドアに掛かる力。
<10×100>=1000
・“ドア回転軸周辺”を押した場合の、ドアに掛かる力。
<10×30>=300
このように<モーメント>は、<加える力>と<回転軸から作用点までの距離>が相互関係を成している。
ドアを例とした式を見て解るとおり、<回転軸から作用点までの距離>が大きければ、<加える力>が一定であっても、より大きな力が物体へと加わるのである。
さて、この「モーメント」から分かる点は2つある。
1.物体をスムーズに動かす(回転)させる為のカギは、回転軸から作用点までの距離、にある。
2.「モーメント」が物体に対し、均衡な場合、その物体は"回転(動か)しない"。
2.のような、「モーメントの均衡」により、物体が回転しない状態を、「つりあっている」と考え、そのような"一点"を物体の<重心>という。
そして、<重心>を物体に対し、“直線”として捉えたものが<回転軸>である。
物体の「回転」はつまり、<重心>からずれた場所に、力が加えられた時におこる、<モーメント>の"ふづりあい"の結果だと、考える事が出来る。
では、この<モーメント>と<重心>の特性を生かして、武蔵坊弁慶を立ったまま殺してみよう。
話を分かりやすくする為に、弁慶の「質量」は180センチメートル100キロ程度と仮定し、「(弁慶自身による能動的な)立とうとする力」の変化は考えないものとする。
まず、弁慶の「重心」を明らかにしよう。
戦乱の武将にとって、散り際は重要であったと思われる。
「いかにして、気高く、美しく散るか、それが問題だ。」
「いつか死ぬときが来たら、どうしよう。」
そのような悩問に対し、弁慶は「漢として、立ったまま死ぬ」ことが当然の理想であったことだろう。
「立ったまま死ぬ」方法を考えるという事は、「倒れないでキズを負う」方法を考える事であり、「倒れる」ということは、肉体における、モーメントの不均衡が起こす、回転(動き)である。
弁慶は自分の<重心>を必死に見つけた事だろう。
<重心>さえ見つかれば、矢キズを受けて仰け反った時、<重心>と対称に矢キズ(等しい力)を受ければ、<モーメント>が均衡し、弁慶は「回転(仰け反ら)」しない。
<重心>の見つけ方は、理屈としては簡単である。物質の「回転軸」を二本みつけ、その交点が<重心>となる。
しかし、これは静止している物体の場合ならまだしも、人間などの常に動く物体の場合、<重心>がその都度移動する。
その度に、逐一見極めるのは、限りなく不可能であろう。
しかし、弁慶が欲しがったのは「倒れない姿勢」であり、「倒れない死体」なのである。数パターンも見つかれば事足りる。
かくして弁慶は、「もはやこれまで!」と悟った時に、キメる、"絶命ポーズ"を何種かストックするに成功したのである。
次に「弁慶」が考えなければならないのは、「モーメントと重心」が及ぼすところの、「力が加わる場所」、すなわち、倒れない為の傷の位置と威力である。
例えば、「重心」から20センチの場所に50キロの力を受けた場合、弁慶の身体には"1000モーメント"が働く。そのパワーを"相殺"する為には、重心によって導かれる回転軸の反対側に別の"1000モーメント"を受ける必要がある。
回転軸と対称に、二つの力が均衡していれば、弁慶は一向に回転(動か)しない為、"倒れない"というしくみだ。
そこで、弁慶は、自分に加わる"モーメント"の値を把握しておく必要がある。彼は、"絶命ポーズ"時の人体における、あらゆる攻撃や苦痛のパワーを、計測し、把握した事だろう。
そう、あらゆる武器、による、あらゆる外傷で。
物語等で登場する弁慶は、"刀の収集"が趣味だったというが、その実態は、あらゆる攻撃の分析の為、"あらゆる武器"を収集していたのではないだろうか?
勿論、"あらゆる攻撃・あらゆる苦痛"の実地に対しては、それを身代わる被験者も必要である。
データの収集の為、悪漢・武蔵坊弁慶によって、"絶命ポーズ"をとらされて、ありとあらゆる手法で殺された捕虜の命の数は想像するのもオゾマシイ。せめて"絶命ポーズ"が恥ずかしいポーズでは無かったことを祈るばかりだ。
さて、準備は万端。弁慶はいつでも死ぬ(勿論、立ったまま)覚悟で戦場へ赴く。
他の兵隊と違い、"散り際への悩みの無い"弁慶は強い強い。そして、運命のその時はおとずれたのである。
「もはや、これまで!」と悟った弁慶は、例の"絶命ポーズ"をとる。
重心の位置をしっかり把握しつつ、即死となる致命傷を避けながら(※そのような面倒な死に方もせずともよいのだが、漢は夢想の為、全てを投げ打つものなのである)、敵の攻撃を、受ける。
そして、弁慶は記憶から例の"あらゆる攻撃・あらゆる苦痛"を分析した"血の実験"を思い出す。
「この攻撃のモーメントにおいて、倒れない場所、それは、ここだーッッ!!!」
かくして弁慶は、二発目の攻撃を、"相殺"位置に自ら叩き込むことによって、倒れるどころか回転すらせず、「立ったまま死んだ」のである。
うむ、天晴。
・・・しかし、ってことは、弁慶は「自殺」か? ダメじゃん。
敵に背を向けず「立ったまま死ぬ」という、おそらく戦ビト達の羨望の夢想は、なかなかに難しいようです。