S F や ホ ラ ー が す き
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<シュレディンガーの猫>という言葉を初めて知ったのはチュンソフトのTVゲーム『街』が最初だった。
非商業的な純文学(個人的な作品)を書きたいと願う脚本家が、”何者か”に邪魔をされ、《低俗で陳腐》な商業的作品を量産してしまう話だ。
小説家は”純文学”と”低俗な作品”を同時に一つの箱に収め、出版社へ送る。しかし、小説家をとりまく不可思議な現象は”純文学”と”低俗な作品”のいずれか一方を箱の中で消してしまう。
つまり、どちらの作品が出版社に託されるかは、箱を開封した観測者に委ねられるという訳だ。(そのような内容だった多分。)
さて、『街』以外のフィクションでも使われる機会の多い<シュレディンガーの猫>であるが、これは元々物理学用語だった。
量子力学の入門書等に詳しい解説が載っているが、井上雅彦さんの『うしろへむかって』という短編が、その概要を掴むのに楽だと思う。(”物語”として消化も出来るし。)
『うしろへむかって』は、ドライブを楽しむカップルが、”恐怖と進化”について語り合う話だ。
作中で<シュレディンガーの猫>は以下のように解説される。
《箱の中の一匹の猫。青酸ガスの仕掛けで死ぬ確率は半々。
この状態こそ、箱を開けて中を<観測>するまでは―つまり、<観測>によって量子力学的に波動関数が収斂するまでは―生きている猫と死んでいる猫が、同時に箱の中に存在する・・・という奇々怪々なる幻視(ヴィジョン)。》
また、続いてすぐの段落で、<シュレディンガーの猫>の生まれた経緯と、実は、生みの親シュレディンガー博士による皮肉だとの注釈がなされる。その内容は、《量子物理学と対立する古典物理学との統合を目指したつもりで完成させた自分の波動関数の方程式を確率論的に解釈しようとしたマックス・ボルンたちに対する、あてこすり》。こんなに短い文でよく纏まっているのがスゴイ。汗
更なる仕上げとして、<シュレディンガーの猫>を、抽象的表現を用い易しく解説する。内容は、《しかし―。先鋭的な量子物理学者たちは、なんと、この<幻獣>の存在さえも理論的に肯定してしまったのだ。<観測>のその瞬間まで、無限の生命と無限の骸とが混ざり合い蠢き合う、しなやかな一匹の和毛の波動・・・。》。
僕は、学者たちが理論的に<幻獣>を肯定したことに、恐怖を覚え、「無限の生命と骸が混ざり合う」という表現で、量子状態の猫の状態を「なるほど」と嚥下した。
そして、しめくくるかのような作中の主人公のセリフ。
《「そうだ。科学は怪談に満ちている」》
<シュレディンガーの猫>。それは観測者によって結果が収斂するという仮説。
そして、全てのモノが素粒子から出来、量子状態で保存されているという量子論が、真理だとするならば・・・。
全てのモノに根本があるとして、そして、それが量子状態で存在しているとする量子物理学は、全てのモノの”存在”を根底から揺さ振る。
量子物理学と古典物理学の境、その<のりしろ>の不条理は因果律では求められない不気味さとして横たわっている。
まさに、《科学は怪談に満ちている》。