S F や ホ ラ ー が す き
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映画『スカイ・クロラ』に『イノセンス』程の期待をしてしまっていたからか、CFを見る限りミッドナイトシャマラン監督の『ハプニング』の方が見たい。
けれど、なんだかんだ云って、押井守監督の作品にはハズレが無いような気がするので、『スカイ・クロラ』も結局「観てよかったなぁ」なんて思うんだろうか。僕はきっと一読で理解することができないのでDVDが待ち遠しい。
さて、そんな『スカイ・クロラ』であるが、なんでも押井さん初の<思春期の子供が主役>の作品だそうだ。
『うる星やつら2』も思春期の子供が主役だったが、彼ら特有の内面を洞察するのが目的の作品ではないと思われる為、メンタルケアを目的とした作品としては『スカイ・クロラ』が初なのだろう。
『スカイ・クロラ』の原作を読んだことが無いので比較が出来ないが、メンタルケアといえば僕は竹本健治さんの『個体発生は系統発生を繰り返す』という短篇を思い出す。
(今気づいたが氏の名前は、健治、で、健康に治す、とは。それを物語の中でやっておられるとは。ううむ。)
『個体発生は系統発生を繰り返す』は、解説の井上雅彦さんが序文で述べる、《竹本健治の織り成す「トロイ・メライ(子供の情景)」には、静かに死のアトモスファーが漂っている。まるで、世界に生み出された新たなる人類の不安のように。》という言葉がしっくりくる作品だと思う。
主人公<ぼく>と、変わり者の少年<マサムネ>との奇妙なディスカッションが、懐かしくもすこし悲しい<ぼくを取り残してにぎわう街や学校や居場所>を舞台として綴られる。
ディスカッションの内容は<罪と罰と贖罪>。
「血まみれの標本」を隠している<ぼく>に<マサムネ>は、《人間は繰り返し罪と罰について考える。物心ついたころからずっとね。何も考えないやつもいるけど、考える奴は考える。そして多分、僕の見るところでは、僕等の年代がいちばんそうなんだ》と話す。
僕はこのセリフを見たとき、共感のあまり、思わず拳を握り締めた。
いわゆる<中二病患者>である<ぼく>への、なによりの処方箋ではないか。
僕の少年時代を思い返すに、思春期の子供は多分、物事に輪郭を与えることが苦手なのだと思う。抽象的に善悪や可不可、必要不要を横断して捉えるのは得意だ。
けれど、原理原則や他角度的な視点による応用的な考証の経験が少ないから、カタチの無い”不安”に戸惑い、向き合い方が解らないのだと思う。
<ぼく>の見つけられる”進路”は似たような名前の標識、そしてラベルを貼る必要もないくだらない会話。
そんな<ぼく>が学校へ行く目的は、<マサムネ>のする”天界の仙人がそうするようなスケールの大きい話”の盗み聞きの為だという。
おそらく、作中の<ぼく>は、何が悪くて良いのかは解らないくせに、きちんとした”拒絶ポリシー”は持っている、というキャラなのだろうと僕は読んだ。そして、この一方的な独善観と、拒絶反応が<思春期の子供>の特有さのような気がする。
<ぼく>と<マサムネ>のディスカッションは<罪と罰と贖罪>から、次元に枝を生やし、物語の進行と共に<居場所>を問う種を<ぼく>に植えつける。
そして物語は<ぼく>の<居場所>を<ぼく>自身が決定し帰結する。
<ぼく>の孤独からの開放だ。
けれど、それは作者としては<ぼくを取り残してにぎわう街や学校や居場所>への<ぼく>の埋没を、揶揄したものなのかもしれない。
けれど<思春期の子供>にとってはそれが一番良い。
なぜなら彼らには”孤独”こそが一番キツかったのだろうから。