S F や ホ ラ ー が す き
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小林泰三さんの<本>を読む。
自分が今まで読んだホラー小説の中で、怖い物語ベスト5には入る。(といっても浅い読書暦なのですが)
ホラー小説の中で怖かったのをぱっと挙げると、他には、貴志裕介さんの「黒い家」、窪井凛さんの「FLY」など。「FLY」は大オチ(ラストの数ページ)が怖かった。というか、不愉快さすら覚えた。その意味で実に鮮烈だった。
また、小学校のときに読んだ 我孫子竹丸さんの「殺戮にいたる病」も怖かった。(その後社会人になって恋人にも薦めたが、彼女にはイマイチだったそうだ)
僕にとっての<本>の怖いところは「入れ子構造」と「メモリが埋まる」とこにあった。
「入れ子」においての、あのオチはないだろう。怖すぎる。(ネタバレしないようにするのが大変)
ただ、そのオチの数ページの情景はスゲー イイ とおもった。まさに、「汚くて綺麗」。庭園・・・萌え。
「芸術は情報である。」
この理論への誘い方が実に巧み。するすると引寄せられてしまった。
文章だけでなく、絵画や音楽にもその理論を”あてはめてしまう”のはスゴイ。
江戸川乱歩さんの「パノラマ島奇譚」も芸術に関する物語だった。
「芸術とは自然に逆らう行為。つまり超自然を作ることだ」
たしかこのような「歪んだ理論」の上に構築された、「歪んだ男の歪んだ物語」だったと思う。
けれど、この 歪み は相対的なもので、主人公の男は「歪んで」などいない「純粋」な動機の元、芸術活動を行う。
<本>を読んだときにそれを思い出した。
ただ、<本>の場合はそれを唯の「純粋」さによる狂気とは描いていない点で、読後 さわやか だったのだけれど。
また、田中啓文さんの「忘却の船に流れは光」には「芸術家たち」と呼ばれる芸術活動家が出てくる。
彼らの場合は、
「芸術によって、スクエアな主張はしない」
という主義を持っており、前挙の芸術家たちと異なり「ヒトに影響を与える為の創作」は意図していない。
彼らもまた さわやか であった。
いずれもしても共通しているのは、「芸術とは、人類が『非現実』を覗く(繋ぐ)為の媒体」と考えておられる点ではないかと思われる。
南田勝也さんの「ロックミュージックの社会学」によると、「クラシック音楽」も元々そういう意図(より非現実であり、幻想的な情景を 描く 意図)で作られたんだそうだ。
・・・てことは、芸術って、現実逃避のお助けツールかぁ・・・。なんだかなぁ・・・。