S F や ホ ラ ー が す き
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一連の流れのある夢を見た。汗
なぜか映画のような演出で、所々”黒地に明朝体の文字”がカットインされたり(いわゆるエヴァ演出?)妙に手の込んだ夢であった。
折角なので、覚えているうちにその概要を書き留めておこうと思う。
①舞台は中東の市街地かと思われる。行政が停滞し、舗装されていない道路に打ちっぱなしのコンクリートのビルと、青色のダストボックス、露店が並ぶ。その全てがおのおのに朽ちており、この街の経済と政治は豊かではないことを示すかのよう。
②主人公は何故か複数いて、様々な視点で物語(夢)は進行する。
主な登場人物は以下の通り。
・ブロンド色の長髪の”痩躯の少年”。
・スキンヘッドに丸眼鏡でがっちりとした体格のオネエ系の”街医者”。(が、何故かシーンシーンで金髪のボブカットになる)
・街医者の”奥さん”。
・茶色の短髪に、日焼けした肌のがっちりした体格の30歳くらいの男。色の薄いサングラスをかけている。”ガテン系”(多分親戚のおじさんがモデル)。痩躯の少年の友人のようだ。
(なお、それぞれに名前はない)
以上の彼等は、どうやらその街に住む仲間のようで、それぞれに労働をして口を糊する生活を送っていた。
③が、ある日のこと”街医者”のところで「社内定期健康診断」(何故か会社も無いのに社内健康診断)を受けていたところ、彼等の日常は破綻する。
④”ガテン系の男”が目の手術を行うことになり、ソレと同時に「念のため、君もみてみよう」という事から、”痩躯の少年”も細かな診断を受ける。
⑤その折、カルテーに健康状況を自己申告するのだが、”痩躯の少年”は良好である。
が、”街医者”はなぜか少年に「直腸ホロスコープ」を執拗にせまる。
⑥”街医者”の執拗さとオネエキャラに貞操の危機を感じた”痩躯の少年”は、逃亡する。
すると、医院の個室でぐずっている赤ん坊と出くわす。それを(多分、声を出して見つからない用にとの理由から)あやす少年。
どうやらこの赤ん坊は街医者の子らしい。
⑦そうこうしていると”街医者の奥さん”が出てきて、あやしてくれたお礼として”指輪”(指輪と筆記したが正確には”義指”であった)をくれる。
そのうえ、”街医者の奥さん”は”街医者”にかけあって直腸ホロスコープの施術を中止させる。
⑧医院から生還することが出来た”少年”であったが、常として「誰かに見られているような」感覚を受ける。
⑨そんなある日、街医者がカフェからこちらを覗いていることを発見する。
再び怖くなり逃げる”少年”。
⑩が、逃亡中、”少年”は仲間たちに見つかる。”少年”の身を安じて探していたのだった。
⑪仲間たちに引き止められ結局、逃亡を諦める少年。ここで「皆に相談したいことがある」と話を切り出す。
⑫「自分はやりたいことがあって遠くに行かなければならない。」と、別れを告げる少年。ついてはかねてより親しくしてくれた”街医者”にも別れをいいたいと、街医者を呼び出すように仲間に頼む。
⑬仲間が街医者をつれてくる間、少年は常感じていた「誰かに見られているような」違和について考える。(そして、何故か)それは目の手術をした”ガテン系”の中にカメラが埋め込まれており、そこから少年を”街医者”が覗いていたと(少年は何故か)結論する。
そのうえ、”奥さん”がくれた指輪にもカメラが入っているのだと夢想する。
どうも少年は、全ての善意を疑っているのであった。
(また、この間同時に、医者が来る間、少年はどうのように医者を殺害するかについて仮想実験を繰り返していた。)
⑭そして医者と対面した少年は、医者を殺しにかかる。
だが、すんでのところで事を中断し、殺しにかかった加速度のまま、少年は何故かどこからとも無く現れたミニバンに乗って逃亡する。
視点は”仲間”に移行し、”逃亡少年”の姿が見えなくなる。その胸には、仲間に裏切られた(カメラによって監視を担っていたから)ことと、医者への殺害のことが滾っている。
⑮そしてオチ。
実は”街医者”も”奥さん”も仲間も本気で少年の大腸ガン(もしくはそれに類する直腸カテーテルの施術が必要な病気)を心配しており、全員が善意から少年にあたっていたのだった。
此処で、例のエヴァ演出のカットイン。
「ああ、きっと、かれは、人に優しくされたことがないんだ。」
そこで目が覚めた。
a-samohi-rumoyo-rumoonaji
se-maiheyadeesa-tuiba-mi
a-bokuha-bokuha-koware-te
i-tukataberareru-
u-ma-re-ta-toki-kara-
keikakusitetakonosa-kuse-n
sippa-ihayurusare-nai
hikarisasuhouhe
ima
tabi
date!
ko-kekoko-
mo-kekko-
asa-ga-ki-ta-ra
konosekainiosarabato
habatakou
ko-kekokko-
democyotto-
wa-su-re-teta-yo
tobena i ni-wato-ri-
nanoda!
うーむ・・・良い
先々月辺りに上野でダーウィン展なるものがやってたらしいのですが、結局行きそびれてしまったので、解消の意も兼ねココに散らかす。
「進化論」を扱った本でとにかくお気に入りのある本があるのですが(ネタバレを防ぐため? 題名は無記入)、其の中の ”人間は背中があるから進化をした” という説がお気に入り。
「人間」が霊長類の最高峰だとして、「背中がある」という(いわば死角のある)形状のまま、生存競争に打ち勝ち、環境に適応できたのは、まさにその「背中がある」故の、弱点克服の為の工夫こそ理由なのではないか?
脊椎動物・無脊椎動物。「この先どちらに進化するか?」を太古に問われた生物が、「背中」という弱点を選ぶことによって「人間」へと進化していった。そのプロセスは、非常に馬鹿馬鹿しいが、説得力がある。
「背中」という死角。そこから生まれる様々な感情・物理的な障害。
それを超越することが進化だと解く、この「進化論」。
論理こそ変化球には違いないが、僕は非常に感銘をうけたのです。ガラパゴス。
よく正論を諭すようにぶつけてくる人間が居ますが、
それは”概論”としてあるものをそのままぶつけてくるだけなのでしょうか?
そこんところ非常に気になる。
”概論”も”通念”も全くの租借もせずにただ扱うような人間は、
私はただのナルシストさんだとしか思えない。
ここで一句。
アゲハチョウ 虚飾・虚栄にしがみつき 煤けた背に未だ裂けぬ殻。
煤けた背に背に、不幸自慢。
ああ悲しきかな アゲハチョウ。
日記再開。
理由は本とか読んでも内容を忘れてしまう事が多い為。また、それに伴う、所感(ネタ?)を纏める癖をつける為。
「日記」はあくまでも自分へ向けてのものだと思うのですが、閉鎖したままで居ると怠けてしまう為、「ブログ」という公開機能を持つ媒体をあえて日記としようと思う。
最近思う事は、BJCのリトルリンダを聴いて「もしも自分に子供が出来たらどんな気持ちになるのだろうと考える親」の事。
自分の子供が世間に負けないように、現実を突きつけて育てる事も一つの在り方だと思うけれど、例えば僕だったら、思い切り甘やかして育てたい。
この世にある「汚いもの」「危険なもの」は全ては嘘でファンタジーで、例えば子供が原爆博物館や、戦争やレイプ犯罪を知ったとしてもソレは嘘でファンタジーだと、いってやりたい。
子供には綺麗なものだけ見せてやりたい。それで彼等がどれだけ我侭に育とうと、世間知らずと甘ちゃんと言われようと、もしも自分が親になったら、思い切り甘やかしてやりたい。
冷たい風はどのように育てようと、社会に属する以上自分の子供にあたる。
ならばどんなときでも笑って乗り越える、明るさ(能天気さ)と強さを体中に染みにつけてやりたい。
全ては嘘で、綺麗なファンタジーと綺麗なものだけ見せて、どんなときでも綺麗なものがあるのだと思っていて欲しい。
現実に疲れて、ロックを聴きパンクを聴き、ヴィジュアル系に傾倒し、ダンスミュージックに余所見をし、結局のところクラシックに行き着くような無軌道な青春を彼等が送ろうとも、綺麗なものを知っていて、どんなときも笑えるならば、そうあって欲しい。
リトルリンダ。
オーリトルリンダ。
書いた文消えた。汗
とにかく、ワードとエクセルが使えることが判明したので、今後はそれらを用いて乱筆を行うことにする。
●本日の書き留●
・消費社会の中で戦うことを決めた=ジギーズスターダスト
・資格ユーキャン
・ベルトコーデのひとつにすら多次元方程式
・出会わなければよかったこんなにも泣くのなら。抱かれるのなら。抱くのなら。
・理屈がスティンガーを生む。(そしてそのことに気づくと少し醒めるのだ)
・人間、自己正当化に於き、比類無し、双肩無し。その傍らで空疎に傍観する第三者の視点、多分にそれすら押し殺すのを待つ。
物理学とは?
辞書には、以下のように記述がある。
≪物質の構造・性質を明らかにし、それによる自然現象の普遍的な法則を研究する自然科学の一部門。運動・熱・光・電磁気・音などの諸現象をはじめ、素粒子・核・宇宙線・量子エレクトロニクスなど対象は広く、精密な実験によって量的な把握を行い、数学を応用して表すことに特徴がある。(大辞林)≫
つまり、物理学とは、「空へ投げたボールがなぜ落ちてくるのか?」とか、「電車に乗ってると何故カーブでふらつくのか?」とか、そういった普段気に留めないであろう、日常のささいな事柄に「法則」性を見つけ出し、研究する学問なのである。
物理学の目的とするところの、導かれた「法則」は、「投げたボールが落ちてくる法則」という身近な問いから、「この世を”この世”として作る為の法則」というスケールの大きなものまで様々ある。
誰しも一度は、「海は何故青いのだろう?」とか「地球や人は一体何から出来ているのだろう?」とか、素朴な疑問として考えたことがあるだろう。
または、「宇宙の果てには何があるのだろう?」とか「タイムマシーンは作れるのだろうか?」とか、当所(あてど)の無い疑問でも構わない。
それに応えてくれるのが、物理学である。
と、ここまでかいたらあきてきたのでふういん