S F や ホ ラ ー が す き
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日本には<立ったまま死んだ>とされる歴史上の人物が幾人かいるそうだが、その原因の多くは医学的理由からの<死後硬直>であるとされている。
しかし、原因が<死後硬直>であったとなると、<死後硬直>はそもそも死んでから起こるものであるので<立ったまま死んでいった>という事にはならない。
又、<生前における筋肉の硬直>だとする説もあるが、それだと本人が意図せず<"たまたま"立った>のであって、「けして私は倒れない!」という本人の意思が尊重されない上、ドラマとしてもアツくなかろう。
では、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい。平安時代末期の僧衆〔僧兵〕。物語などでは義経〔牛若丸〕に仕える怪力無双の荒法師として名高い。「雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだ」とされる)のように、立ち姿で美しく永眠るにはどうすればよいのか?
しかも「私はけして倒れない!」というモノノフの意志を尊守したまま、である。
そこに、一つの可能性を提示してくれるのが、古典物理学における力学系の一つ、<モーメント>と<重心>という考え方である。
さて。今、貴方の目の前には、押し開きのドアがある。
このようなドアを開けようとしたとき、ドアノブ辺りを押すとスムーズに開く。
が、ドアと壁のつけね(ドアが回転する軸)辺りを押すと、簡単には開かないだろう。
その理由は、加える力が一定の場合、回転軸から作用点(力を加える位置)までの距離が異なることで、物体の回転に易難が生ずる為である。
このような<加える力×回転軸から作用点までの距離>で導く、回転軸を持った物体に掛かる力の量値を<モーメント>という。
ではドアの例に、この式を当てはめてみよう。
ドアの回転軸からドアノブまでの距離を100センチメートルとし、ドアの回転軸に近い作用点の距離を30センチメートルとする。そして、ドアを開こうとする力(=加える力)は一定値10としよう。これらを<モーメント>を求める式に当てはめると以下のようになる。
・“ドアノブ辺り”を押した場合の、ドアに掛かる力。
<10×100>=1000
・“ドア回転軸周辺”を押した場合の、ドアに掛かる力。
<10×30>=300
このように<モーメント>は、<加える力>と<回転軸から作用点までの距離>が相互関係を成している。
ドアを例とした式を見て解るとおり、<回転軸から作用点までの距離>が大きければ、<加える力>が一定であっても、より大きな力が物体へと加わるのである。
さて、この「モーメント」から分かる点は2つある。
1.物体をスムーズに動かす(回転)させる為のカギは、回転軸から作用点までの距離、にある。
2.「モーメント」が物体に対し、均衡な場合、その物体は"回転(動か)しない"。
2.のような、「モーメントの均衡」により、物体が回転しない状態を、「つりあっている」と考え、そのような"一点"を物体の<重心>という。
そして、<重心>を物体に対し、“直線”として捉えたものが<回転軸>である。
物体の「回転」はつまり、<重心>からずれた場所に、力が加えられた時におこる、<モーメント>の"ふづりあい"の結果だと、考える事が出来る。
では、この<モーメント>と<重心>の特性を生かして、武蔵坊弁慶を立ったまま殺してみよう。
話を分かりやすくする為に、弁慶の「質量」は180センチメートル100キロ程度と仮定し、「(弁慶自身による能動的な)立とうとする力」の変化は考えないものとする。
まず、弁慶の「重心」を明らかにしよう。
戦乱の武将にとって、散り際は重要であったと思われる。
「いかにして、気高く、美しく散るか、それが問題だ。」
「いつか死ぬときが来たら、どうしよう。」
そのような悩問に対し、弁慶は「漢として、立ったまま死ぬ」ことが当然の理想であったことだろう。
「立ったまま死ぬ」方法を考えるという事は、「倒れないでキズを負う」方法を考える事であり、「倒れる」ということは、肉体における、モーメントの不均衡が起こす、回転(動き)である。
弁慶は自分の<重心>を必死に見つけた事だろう。
<重心>さえ見つかれば、矢キズを受けて仰け反った時、<重心>と対称に矢キズ(等しい力)を受ければ、<モーメント>が均衡し、弁慶は「回転(仰け反ら)」しない。
<重心>の見つけ方は、理屈としては簡単である。物質の「回転軸」を二本みつけ、その交点が<重心>となる。
しかし、これは静止している物体の場合ならまだしも、人間などの常に動く物体の場合、<重心>がその都度移動する。
その度に、逐一見極めるのは、限りなく不可能であろう。
しかし、弁慶が欲しがったのは「倒れない姿勢」であり、「倒れない死体」なのである。数パターンも見つかれば事足りる。
かくして弁慶は、「もはやこれまで!」と悟った時に、キメる、"絶命ポーズ"を何種かストックするに成功したのである。
次に「弁慶」が考えなければならないのは、「モーメントと重心」が及ぼすところの、「力が加わる場所」、すなわち、倒れない為の傷の位置と威力である。
例えば、「重心」から20センチの場所に50キロの力を受けた場合、弁慶の身体には"1000モーメント"が働く。そのパワーを"相殺"する為には、重心によって導かれる回転軸の反対側に別の"1000モーメント"を受ける必要がある。
回転軸と対称に、二つの力が均衡していれば、弁慶は一向に回転(動か)しない為、"倒れない"というしくみだ。
そこで、弁慶は、自分に加わる"モーメント"の値を把握しておく必要がある。彼は、"絶命ポーズ"時の人体における、あらゆる攻撃や苦痛のパワーを、計測し、把握した事だろう。
そう、あらゆる武器、による、あらゆる外傷で。
物語等で登場する弁慶は、"刀の収集"が趣味だったというが、その実態は、あらゆる攻撃の分析の為、"あらゆる武器"を収集していたのではないだろうか?
勿論、"あらゆる攻撃・あらゆる苦痛"の実地に対しては、それを身代わる被験者も必要である。
データの収集の為、悪漢・武蔵坊弁慶によって、"絶命ポーズ"をとらされて、ありとあらゆる手法で殺された捕虜の命の数は想像するのもオゾマシイ。せめて"絶命ポーズ"が恥ずかしいポーズでは無かったことを祈るばかりだ。
さて、準備は万端。弁慶はいつでも死ぬ(勿論、立ったまま)覚悟で戦場へ赴く。
他の兵隊と違い、"散り際への悩みの無い"弁慶は強い強い。そして、運命のその時はおとずれたのである。
「もはや、これまで!」と悟った弁慶は、例の"絶命ポーズ"をとる。
重心の位置をしっかり把握しつつ、即死となる致命傷を避けながら(※そのような面倒な死に方もせずともよいのだが、漢は夢想の為、全てを投げ打つものなのである)、敵の攻撃を、受ける。
そして、弁慶は記憶から例の"あらゆる攻撃・あらゆる苦痛"を分析した"血の実験"を思い出す。
「この攻撃のモーメントにおいて、倒れない場所、それは、ここだーッッ!!!」
かくして弁慶は、二発目の攻撃を、"相殺"位置に自ら叩き込むことによって、倒れるどころか回転すらせず、「立ったまま死んだ」のである。
うむ、天晴。
・・・しかし、ってことは、弁慶は「自殺」か? ダメじゃん。
敵に背を向けず「立ったまま死ぬ」という、おそらく戦ビト達の羨望の夢想は、なかなかに難しいようです。
<シュレディンガーの猫>という言葉を初めて知ったのはチュンソフトのTVゲーム『街』が最初だった。
非商業的な純文学(個人的な作品)を書きたいと願う脚本家が、”何者か”に邪魔をされ、《低俗で陳腐》な商業的作品を量産してしまう話だ。
小説家は”純文学”と”低俗な作品”を同時に一つの箱に収め、出版社へ送る。しかし、小説家をとりまく不可思議な現象は”純文学”と”低俗な作品”のいずれか一方を箱の中で消してしまう。
つまり、どちらの作品が出版社に託されるかは、箱を開封した観測者に委ねられるという訳だ。(そのような内容だった多分。)
さて、『街』以外のフィクションでも使われる機会の多い<シュレディンガーの猫>であるが、これは元々物理学用語だった。
量子力学の入門書等に詳しい解説が載っているが、井上雅彦さんの『うしろへむかって』という短編が、その概要を掴むのに楽だと思う。(”物語”として消化も出来るし。)
『うしろへむかって』は、ドライブを楽しむカップルが、”恐怖と進化”について語り合う話だ。
作中で<シュレディンガーの猫>は以下のように解説される。
《箱の中の一匹の猫。青酸ガスの仕掛けで死ぬ確率は半々。
この状態こそ、箱を開けて中を<観測>するまでは―つまり、<観測>によって量子力学的に波動関数が収斂するまでは―生きている猫と死んでいる猫が、同時に箱の中に存在する・・・という奇々怪々なる幻視(ヴィジョン)。》
また、続いてすぐの段落で、<シュレディンガーの猫>の生まれた経緯と、実は、生みの親シュレディンガー博士による皮肉だとの注釈がなされる。その内容は、《量子物理学と対立する古典物理学との統合を目指したつもりで完成させた自分の波動関数の方程式を確率論的に解釈しようとしたマックス・ボルンたちに対する、あてこすり》。こんなに短い文でよく纏まっているのがスゴイ。汗
更なる仕上げとして、<シュレディンガーの猫>を、抽象的表現を用い易しく解説する。内容は、《しかし―。先鋭的な量子物理学者たちは、なんと、この<幻獣>の存在さえも理論的に肯定してしまったのだ。<観測>のその瞬間まで、無限の生命と無限の骸とが混ざり合い蠢き合う、しなやかな一匹の和毛の波動・・・。》。
僕は、学者たちが理論的に<幻獣>を肯定したことに、恐怖を覚え、「無限の生命と骸が混ざり合う」という表現で、量子状態の猫の状態を「なるほど」と嚥下した。
そして、しめくくるかのような作中の主人公のセリフ。
《「そうだ。科学は怪談に満ちている」》
<シュレディンガーの猫>。それは観測者によって結果が収斂するという仮説。
そして、全てのモノが素粒子から出来、量子状態で保存されているという量子論が、真理だとするならば・・・。
全てのモノに根本があるとして、そして、それが量子状態で存在しているとする量子物理学は、全てのモノの”存在”を根底から揺さ振る。
量子物理学と古典物理学の境、その<のりしろ>の不条理は因果律では求められない不気味さとして横たわっている。
まさに、《科学は怪談に満ちている》。
映画『スカイ・クロラ』に『イノセンス』程の期待をしてしまっていたからか、CFを見る限りミッドナイトシャマラン監督の『ハプニング』の方が見たい。
けれど、なんだかんだ云って、押井守監督の作品にはハズレが無いような気がするので、『スカイ・クロラ』も結局「観てよかったなぁ」なんて思うんだろうか。僕はきっと一読で理解することができないのでDVDが待ち遠しい。
さて、そんな『スカイ・クロラ』であるが、なんでも押井さん初の<思春期の子供が主役>の作品だそうだ。
『うる星やつら2』も思春期の子供が主役だったが、彼ら特有の内面を洞察するのが目的の作品ではないと思われる為、メンタルケアを目的とした作品としては『スカイ・クロラ』が初なのだろう。
『スカイ・クロラ』の原作を読んだことが無いので比較が出来ないが、メンタルケアといえば僕は竹本健治さんの『個体発生は系統発生を繰り返す』という短篇を思い出す。
(今気づいたが氏の名前は、健治、で、健康に治す、とは。それを物語の中でやっておられるとは。ううむ。)
『個体発生は系統発生を繰り返す』は、解説の井上雅彦さんが序文で述べる、《竹本健治の織り成す「トロイ・メライ(子供の情景)」には、静かに死のアトモスファーが漂っている。まるで、世界に生み出された新たなる人類の不安のように。》という言葉がしっくりくる作品だと思う。
主人公<ぼく>と、変わり者の少年<マサムネ>との奇妙なディスカッションが、懐かしくもすこし悲しい<ぼくを取り残してにぎわう街や学校や居場所>を舞台として綴られる。
ディスカッションの内容は<罪と罰と贖罪>。
「血まみれの標本」を隠している<ぼく>に<マサムネ>は、《人間は繰り返し罪と罰について考える。物心ついたころからずっとね。何も考えないやつもいるけど、考える奴は考える。そして多分、僕の見るところでは、僕等の年代がいちばんそうなんだ》と話す。
僕はこのセリフを見たとき、共感のあまり、思わず拳を握り締めた。
いわゆる<中二病患者>である<ぼく>への、なによりの処方箋ではないか。
僕の少年時代を思い返すに、思春期の子供は多分、物事に輪郭を与えることが苦手なのだと思う。抽象的に善悪や可不可、必要不要を横断して捉えるのは得意だ。
けれど、原理原則や他角度的な視点による応用的な考証の経験が少ないから、カタチの無い”不安”に戸惑い、向き合い方が解らないのだと思う。
<ぼく>の見つけられる”進路”は似たような名前の標識、そしてラベルを貼る必要もないくだらない会話。
そんな<ぼく>が学校へ行く目的は、<マサムネ>のする”天界の仙人がそうするようなスケールの大きい話”の盗み聞きの為だという。
おそらく、作中の<ぼく>は、何が悪くて良いのかは解らないくせに、きちんとした”拒絶ポリシー”は持っている、というキャラなのだろうと僕は読んだ。そして、この一方的な独善観と、拒絶反応が<思春期の子供>の特有さのような気がする。
<ぼく>と<マサムネ>のディスカッションは<罪と罰と贖罪>から、次元に枝を生やし、物語の進行と共に<居場所>を問う種を<ぼく>に植えつける。
そして物語は<ぼく>の<居場所>を<ぼく>自身が決定し帰結する。
<ぼく>の孤独からの開放だ。
けれど、それは作者としては<ぼくを取り残してにぎわう街や学校や居場所>への<ぼく>の埋没を、揶揄したものなのかもしれない。
けれど<思春期の子供>にとってはそれが一番良い。
なぜなら彼らには”孤独”こそが一番キツかったのだろうから。
1999年8月7日。富士急ハイランド・コニファーフォレスト。
アメリカのロックバンド『マリリン・マンソン』氏プロデュースによる音楽イベント、『BEAUTIFUL MONSTERS TOUR』においての出来事。
音楽評論家・市川哲史氏によると、その会場は「自国(日本)の音楽に差別的な」洋楽ファンで埋め尽くされていたらしい。
そんな中、ある一組の<日本人のV系バンド>が大物外国人アーティストに混じって参加していた。
バンド名を『PIERROT』といった。
PIERROTのボーカル・キリト氏は、アンチ日本音楽の洋楽ファンで埋め尽くされた会場で、<先制攻撃としてのMC>を、以下のように放った。参考文献『私が「ヴィジュアル系」だった頃。/著・市川哲史』から引用しよう。
《洋楽ファンの皆さん、初めまして。僕等があなたたちの大嫌いな、日本のV系バンドです。今日はそれを承知でやってきました。洋楽ファンの方たちにとってはこの時間がトイレタイムということで――皆さん相変わらず外人相手にヘラヘラやってますか? 日本人が憎くてしょうがないですか? あなたたちの国籍は一体、どこなんでしょう。そしてこの中でどれだけの方が、外人とセックスするためにスタッフからバックステージ・パスを貰っているのでしょう。きっと今、僕は目茶目茶憎まれてるんでしょうね》
これを受けての市川哲史氏のコメントがまた面白い。
《おもいきり喧嘩を売ってるぞ、この確信犯は》。だって。
素晴らしいバンドである。
一曲も聴いたことはないのだけれど、音楽というのが<作品性>では無く<精神性>まで問われるものだとするのなら、この一件でのPIERROTさんはメチャメチャカッコイイバンドだ、と僕は思う。
実は今日、菅野よう子さんのCDを推薦で聴いたのだが、聴き終わったときに、このPIERROTさんの一件を思い出した。
アニソンだとかヴィジュアル系だとか、<あなた>たちがつぶし、時にふたをとじてきた音楽は、ロッキンオンなどで、<精神性>が語られなくとも、時に、メチャクチャカッコイイ。
おんなじ話をしておんなじ趣味をもって、おんなじものを有難がり、おんなじものを批判して、何も考えず洞察もせず、疑いもせず、迎合してすりへっていく人生それで満足なのか、<あなた>たちは。
僕は嫌だけどなぁ…。そんなことを思った一日でした。
(ああッ、なんか変な日記になってしまった。;)
小林泰三さんの「酔歩する男」を久々(1-2年ぶりくらい)に読み返す。
ΑΩ も 久々に読み返す。
結構長い小説なので、端々をひろい読みする程度にする予定だったのだが、
ほとんど通して読んでしまった。
ひどい引力である。
厚い―質量がデカイ―だけのことはある。(違)
以前読んだときは、私はSFギライだった為、第一部の”ガ”の世界に退屈していた。
(プラズマとか磁場とかを映像としてイメージする事が出来なかったことが理由だと思う、確か)
一番楽しかった箇所は、主人公の変身シーン(湖での戦闘)だった。
しかし今回読み返してみて、一番楽しかったのは”第一部”であった。
(稚拙な表現で申し訳ないが) 夜景 を何億倍も美しくしたような、営みある光と闇のコントラストが、なんかもう、チョーよかった。
初めて読んだ時に分からなかった単語 (例えば、”パーセクマシン”、”量子”など)も、今は(単語の意味としては)理解できている(とおもう)ので、混乱 も無く楽しめた。
センス・オブ・ジェンダー賞―性差の描写について与えられる賞―に輝いたのも、読み返すことで初めて納得した。(一体前は何を読んでいたのだと、今思ったが、以前は単に、”科学的な(?)バトル小説”だとおもって読んでいた。けれど、今読み返すと 第一部 の描写は”美しい”としかいいようが無いほど 美しい。解説でもあったが、エレガント であり ガと主人公の”すり合わせ”も、今回―第一部をつっかえないで読むことが出来た結果―非常に印象深く読めた)
(さして興味はないのだけれど)この本の<ジェンダー>に関ることとして、彼らにとっての「交接」が、挙げられるそうだ。
”情報”の交換が、種族の繁栄と淘汰であり、それは”魂(スピリッツ)”を繋ぐ事でもある。
交接の”種的”な目的は前文にあり、”個的”な目的は後文にある。
しかし、その上で(他の個体はどうかは知らないが) ガは、
文化として残すべき”情報”が、長老によって ふるいわけ(検閲?) されることを理解している。
つまり、”残されるべき魂”は、社会に隷属され、浄化のうえ、還元されると知っている。
その上で測量士と交接を行うこと。その後も測量士を”想う”ことは、測量り知れない”情”でしかありえないのではないか。
それを男女感の恋愛だとすることは早計であることは、解説にも書かれているが、やはり僕も思う。
ガのしていること(想い)は、種の繁栄も、強固な社会のシステムも無視した、ただ、”魂”を繋ぐ、その一点のみの営み。
”愛”という(手垢に塗れてしまった←あくまで一部の辺境だけを見て判断した、個人的な意見だが)、言葉を用いるより、”センス・オブ・ジェンダー”という、「聴きなじみ無い」賞で賞賛されて、なんかこう、納得するのだ。
(異性愛という意味ではなく、性差の無い愛という意味でも、勿論これは通じるのだけれど)
交接のしくみを 我々の社会に嵌めこんだとき、(日本だからか)”情報消費社会”としてのネガティブな見方も出来てしまう。けれど、”消費社会”が経済を回し、”人付き合い” を回すことは事実だろう。
その上で、「どう折り合って、社会で生きていくか?」。例の秋葉原事件や、宮崎被告の死刑を知るとそれを思う。
ロックという言葉に商業的意味が融合し、消費社会の中で、ロック雑誌だけをあさり、自分をロックだと思う人間。僕はそれにイラつくのだけれど、「折り合いをつける」という意味で「オレはロックだ」と叫ぶのであれば、それは腑に落とすことも出来る。
ただ、無論それは(彼らの意図する)ロックなのでは、絶対に無くなるのだが。
閑話休題。
久々に読んで、ΑΩの第一部がとっても面白く読めました。
小林泰三さんの<本>を読む。
自分が今まで読んだホラー小説の中で、怖い物語ベスト5には入る。(といっても浅い読書暦なのですが)
ホラー小説の中で怖かったのをぱっと挙げると、他には、貴志裕介さんの「黒い家」、窪井凛さんの「FLY」など。「FLY」は大オチ(ラストの数ページ)が怖かった。というか、不愉快さすら覚えた。その意味で実に鮮烈だった。
また、小学校のときに読んだ 我孫子竹丸さんの「殺戮にいたる病」も怖かった。(その後社会人になって恋人にも薦めたが、彼女にはイマイチだったそうだ)
僕にとっての<本>の怖いところは「入れ子構造」と「メモリが埋まる」とこにあった。
「入れ子」においての、あのオチはないだろう。怖すぎる。(ネタバレしないようにするのが大変)
ただ、そのオチの数ページの情景はスゲー イイ とおもった。まさに、「汚くて綺麗」。庭園・・・萌え。
「芸術は情報である。」
この理論への誘い方が実に巧み。するすると引寄せられてしまった。
文章だけでなく、絵画や音楽にもその理論を”あてはめてしまう”のはスゴイ。
江戸川乱歩さんの「パノラマ島奇譚」も芸術に関する物語だった。
「芸術とは自然に逆らう行為。つまり超自然を作ることだ」
たしかこのような「歪んだ理論」の上に構築された、「歪んだ男の歪んだ物語」だったと思う。
けれど、この 歪み は相対的なもので、主人公の男は「歪んで」などいない「純粋」な動機の元、芸術活動を行う。
<本>を読んだときにそれを思い出した。
ただ、<本>の場合はそれを唯の「純粋」さによる狂気とは描いていない点で、読後 さわやか だったのだけれど。
また、田中啓文さんの「忘却の船に流れは光」には「芸術家たち」と呼ばれる芸術活動家が出てくる。
彼らの場合は、
「芸術によって、スクエアな主張はしない」
という主義を持っており、前挙の芸術家たちと異なり「ヒトに影響を与える為の創作」は意図していない。
彼らもまた さわやか であった。
いずれもしても共通しているのは、「芸術とは、人類が『非現実』を覗く(繋ぐ)為の媒体」と考えておられる点ではないかと思われる。
南田勝也さんの「ロックミュージックの社会学」によると、「クラシック音楽」も元々そういう意図(より非現実であり、幻想的な情景を 描く 意図)で作られたんだそうだ。
・・・てことは、芸術って、現実逃避のお助けツールかぁ・・・。なんだかなぁ・・・。
今はめったに見なくなったが、90年代後半~2000年初頭にかけてCDには<A面・B面>が存在していたと思う。
A面は、マス(大衆)層を意識し<売れる要素>をアプローチした楽曲。
対するB面は、ニッチ層を意識した<マニアックな要素>がウリの楽曲。そんな感じの区別だった。
A面・B面が存在することで、アーティストは商業の場でも、オルタナティブ的な実験をすることが出来、そのことは我々消費者に<商業的>とは別の<異角度的>な刺激をすんなりと投与してくれたような気がする。
けれどそのようなA面・B面の区別も、以前ほどの価値は無くなったように思う。高度に情報化された現代社会では商品の種類も選択方法も陳列方法も多様化したからだ。
PVや動画の配信サービス、音楽専門チャンネル、インターネットに連なる個人HP、WEB掲示板、メールマガジン、SNSサービスなどなど・・・。
ポピュラーとマニアックの区別は<市場の多様化と煩雑化>の元に、飽和と均衡の熱平衡を起こしているのではないか。
そのような<熱平衡の時代>の中で、作品に対して<商業的>や<マイナー>や<特定の読者を意識した作品>などをラベリングする事に然程の意味は無い。
しかし、このような長い前置きの上に あえて”B面的な”というラベルを是非とも冠したい作品がある。
手塚治虫さんの漫画『ミッドナイト』である。
『ミッドナイト』は、深夜営業のタクシードライバーと乗客との人間模様を、”一夜”という縛りの元に描いた作品だ。
主人公のミッドナイトはタクシードライバー。しかし、タクシーの営業免許を持っていない為、深夜にのみ営業。勿論、旅客運輸企業に属することも出来ない為、個人で経営している。
「個人経営の深夜タクシー」。こんなに ネタに困らない職業 をチョイスした手塚さんのセンスも流石だが、ミッドナイトが<B面>たるゆえんは主人公の設定にある。
<モグリ>のタクシードライバーで、一匹狼。
そう、アイツと同じである。
同氏の漫画『ブラックジャック』に登場する、<無免許>の天才外科医ブラックジャック。
日本一有名な医者だ。
『ブラックジャック』と『ミッドナイト』では<主人公がモグリ>という点が共通しているばかりでなく、<一話完結スタイル>や<金次第でイロイロやる>ところなども共通している。
『ブラックジャック』がポピュラーになり<A面>として扱われる一方、作品のファンなら対する<B面>も欲しいと思うのが人情だろう。そんな方へのオススメが『ミッドナイト』だ。
あらゆるシーンで『ブラックジャック』との裏と対偶を味わえるかと思う。
例えば、『ブラックジャック』は(僕の知る限り)決定的な最終回というものが無いが、『ミッドナイト』は完結している。そしてその幕の引き方は、かの手塚ノイローゼ作『アラバスター』を越える衝撃だった。個人的に。
昔々に買った、映画「バトルロワイヤル」のパンフレットが出てきた。
その中でビートたけしさんが、《結局、映画なんてものは見る人の感性次第で変わってくるもんだからね》なんてコメントしているのですが、それはもう ぐぅ の音も出ないです。それをいっちゃあオシマイですってなもんで。苦笑
映画に限らず(言い過ぎではなく)全てのことに当てはまる事柄だと思うんですが、モノ(非物質的なモノ含め)の価値は結局個人の”思いなし”によって決定されると思うのです。
《あぁ 罪深き 欲深さ あぁ 醜いね そのザマが》
これはあるバンドさんの歌詞なんですが、個人的に非常に価値あるものだと思っております。
自分は「聴くよ」ってほど、”音楽”(洋製・和製音楽~クラシック~ヴィジュアル系等含む)というものを聴かないのですが、 個人的に、なんかこうシックリ来たんです。この詞を見たとき チョー キモチよかった(キモイ)というか よく言ったなぁー というか。
てなわけで、どうかなぁーと思ったけど、多分”引用”として済まされる範囲でご紹介をさせて頂きたいと思います。
(けれど、たとえ一部でも歌詞を載せることで、バンドさんの、フリークさんやウォナビーズさんはとカチンと来られるかと思いますので、バンド名は伏せますです。あと、あんま有名(?)になるのもなんかやだなぁー、というのもあって。←つかこのブログにそのような影響力はないと思うけど)
自分が グッ と来たのは 以下の部品。
《さぁ 君好みの 上っ面のお洒落で》
《さぁ みんなで咲き誇ろう 》
《さぁ 目線をカメラに向けて さぁ 自信の角度でほら》※
《あぁ 罪深き 欲深さ あぁ 醜いね そのザマが》
《あぁ 切ないね あぁ必死だね
あっぱれな現実逃避DEATH》
最後の”DEATH”はどうかとおもうが、部品で紹介するのが残念なほど 詞 全 体 が ア ツ イ。
自己主張の実質を 欲深さ が原因だとする意見は、先のビートたけしさんの主張とおんなじくらいの破壊力があると僕は思ったのです。ヤハリ グゥ の音も出ない。 それをいっちゃあオシマイってな感じよねぇ。汗
そしてもう一つ。※マークに注目していただきたいのですが、これはmixiとかブログに顔写真をのっけている人へのタタキに思えてならない。(といいつつ自分もそのヒトリだけど)
その辺も よくぞ言ったなぁー って感じでシックリ来た。
必死だね。醜いね。まぁ、おれもなぁ。
そしてそれを(自分を棚に上げて?)歌っちゃって人に発表できることがら自体も。
ううーん、これぞロック!!(違う?←いいや。「個人的」には ど ロック だぁ)
又聞きなのだが、ちょっと面白かったので記す。
とある小学校での運動会のハナシ。
児童をビデオカメラに収める父兄さんたちに混じって、
あきらかに カタギ で無いヒトの集団を発見。
怖いなぁー と思いつつも、
彼らも子供たちの父兄であり、自分の子の快活な姿を記録しているのだ。と思い直し、(それでも目を合わせないようにしたのは勿論であるが)外見の印象だけで彼らを、 「運動会に我が子を撮りに来ているお父さん」 と見る前に、「ヤ●ザ」 と思った事への非礼を、心の内で詫びた。
さて、徒競走のプログラムのときであった。
例の怖いお父さん集団の子供が、やはり気になった私は、愛娘の撮影の傍ら、彼らの子供はいったいどんな子なのだろうかと(無礼なことだが)怖いお父さんの撮影対象を追っていた。
すると、例の怖いお父さんのビデオカメラを持つ手を、引っ張る少年が居る。
「なんや、タカシ。邪魔すんやない」
「おとーさん。おなかすいた。ガムー」
おなかが空いてガムをねだるタカシくんにもびっくりしたが、何より奇妙に思われたのは、おとーさんの撮影対象である。
タカシくんが息子だとすると一体誰を撮っているのか。タカシくんの兄弟か。
いや、そうではなかった。
競技用のラインに児童が整列する。児童は1~8までのゼッケンをつけ、「いちについて」で、クラウチングスタートの構えを取る。
そのとき、私は聞いてしまった。
「さあ、ナンボや。ナンボ賭けんねん?」
おとーさんとその怖い父兄さんの一味は、なんと徒競争で アレ していたのだった。
しかも、賭け金がハンパじゃない。
「5万」
「じゃあ、かたく3万や」
「よし、わしは8番に8万張るで」
ショックである。その日の私の財布の中より多い。
しかし、私が最もショックだったのが、タカシくんのおとーさんが張った選手である。
「あの4番の女子に、20万や」
20万賭けられた私の愛娘は、見事1着でゴール。
何も無いとは思うけど、もしビリだったらと思うと怖かった。
※このお話は微妙にフィクションです。